月島で和菓子カフェをやっている山の金時堂です!
『うぐいす餅』は、求肥(ぎゅうひ)でうぐいす餡を包み、青大豆きな粉をまぶした和菓子です。
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淡い緑色のきな粉が何ともいえない形の大福にかかっている… その色と形から「うぐいす餅」という名前がぴったりな和菓子ですね!!
でも、これ最初に「うぐいす餅」と名づけたのは、開発者ではないのです。
では誰がこんな抜群な名前をつけたのか…
実は多くの方が知っているであろう、歴史上の有名人がつけたと言われています。
「うぐいす餅」の由来
「うぐいす餅」の名付け親が活躍していたのは戦国時代。
その人物とは、豊臣秀吉なんです。
戦国時代の茶道ブーム
豊臣秀吉というと「サル」や「お百姓出身」などのイメージが強いので、こんな素敵な菓銘をつけるとは意外だと思われた方もいらっしゃるかもしれません。
戦国時代はお茶文化が盛んな時代でした。戦場にまで、茶道道具一式を持っていって、茶道家も連れて行っていたそうです。
織田信長も茶道具のコレクターで、領地の代わりに家臣に茶道具を与えたこともあったとか。
そして織田信長の家臣であった、豊臣秀吉も茶を愛したと言われています。
「黄金の茶室」なんかも有名ですよね。茶道にもわびさびを重んじる人と、華やかさを重んじる人がいるんですね。どちらにしても、本気でやるなら時間とお金が必要で。
豊臣秀吉も茶道に時間とお金を惜しまず使っていたのですから、意外と風流な人だったのかもしれないですね。
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茶会での出来事
「うぐいす餅」を名づけたのも茶会での出来事でした。
1585年、秀吉の弟「豊臣秀長」が茶会を開き、兄の秀吉を招待しました。
豊臣秀吉だけでなく、当時の多くの武将はお茶にもお茶菓子にも厳しい。秀長は御用菓子司であった菊屋治兵衛(きくやじへい)に命令しました。
「珍しい菓子を頼む」
そこで菊屋治兵衛は「粒餡を餅で包み、きな粉をまぶしましたひとくちサイズの餅菓子」を出したのです。
これが豊臣秀吉に大層気に入られ、
「以来この餅を鶯餅(うぐいすもち)と名付けよ」
このセンスはすごい。
その後、徳川の時代になり、本家菊屋は「うぐいす餅」を改名し、「城之口餅(しろのくちもち)」としたそうです。というのも、本家菊屋は当時お城の門の一番側でお店を開いていたからとのことでした。
もしかしたら、徳川の時代に豊臣から賜った名前を使い続けているのはアウトみたいな風潮もあったのかもれないですね。
うぐいす餅の色について
「うぐいす餅」の緑色は、色々な色づけ方があります。
- 着色料で緑色にする方法
- 黄な粉に抹茶を混ぜて緑色にする方法
- 青大豆きな粉を使用して緑色にする方法
山の金時堂では青大豆きな粉を使用して緑色をだしています。
青大豆きな粉はその名のとおり青大豆を炒って作られたきな粉です。
「うぐいすきな粉」とも呼ばれており、普通のきな粉よりも淡く緑がかった色です。また普通のきな粉とは少し違う甘みと香りがあります。青大豆は収穫量が少ないので、青大豆のきな粉も流通量が少ないようです。
青大豆きな粉は完全に天然の緑なので扱いは難しいですが、とてもきれいな色。しかし色が抜けやすいので、すぐに使いきらないといけないという難しさがあります。
まとめ
戦国時代からその名が付いている和菓子って不思議ですよね!もう400年以上前の話ですから。
いつ討たれてしまうかわからない戦国時代の武将が「強い心」を保っていられたのは茶道によるところもあったのではないでしょうか。
山の金時堂でも「うぐいす餅」を出すことがあるので、是非皆様もお越し下さい!!
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